■以前のメモ■
サイト(とブログ)に書いたメモがたまった。
駄メモ(気に入らないメモ。無駄なメモ)があり、佳メモ(気に入っているメモ。波間をただよわない方のメモ)がある。
あと駄メモとか、それと駄メモでしょ、駄メモなんてのもある。
8:2 くらいだろうか。
どっちがどっちかと問われれば、そりゃあ「8」が駄メモと答えるわけで。
で、あとの「2」がそば粉なわけで。
駄メモそばなわけで。
ダメモルチンは毛細血管を強くするです。
そんなことを考えながら、流しで皿を洗っていた。
皿を洗っていたら、ふと、
「あら」を「さらってしまいたい」、と思った。
つまり、駄メモを、取り去るなり書き直すなりしたい!
なんなら己の人生も書き直したい!
修正液ホワイトが乾く前に待ちきれずに書いてしまってなんかもうゴツゴツ、な感じにしたい!
て誰の人生がボツだワレ!
■作業の生態■
などと考え事をしながら皿を洗うのでなくて、ただただ皿を洗う、みたいなことを好んでやる僕です。
時価数億円の皿を心を込めて洗うが如く。皿の形や柄をよおおく眺めつつ、重さや手触り、質感を感じつつ、流れる水の冷たさも感じ、その音に耳を澄ませ、それから自分の身体に余計な力が入っていないか、不自然な姿勢や呼吸になっていないか、最も作業しやすい位置にいるか、そういったことをゼンブ感覚しながら。
すると、なんかすっきりするのです。それと、なごむ、というか。
実際に観たり触ったりすることのできる対象を扱う作業を丁寧に行うことは、「今」を感じるのにもってこいです。
今回は、そんな憎めないヤツである「作業」の生態分布を見てみましょう。
まずはメソード的「作業」。生息地:演劇。学術名:リー・ストラスバーグ科スタニスラフスキーノシステムヲベースニコウアン。こちらは演技のための五感の記憶で作業に限らないが、演劇という分野でこういったノウハウが発達しているのが興味深いところ。
それから「作業」療法。生息地:リハビリテーション医療。手芸、工作、陶芸や音楽、ゲーム、遊びその他の「作業」を使って、身体や精神に障害のある人の諸機能を養っていこうとするリハビリ。神経症の治療法である「森田療法」でもやはり重要な意味がおかれていることでも知られる。
あとあまり目立たないけど、「作業」 in 小説、なんてのも。生息地:文学。小説等のなかで、作業がじっくりと描かれているのをみることができる。例えば、村上春樹の小説では料理や歯磨きといったなんでもない日常の雑事が丁寧に描写されていることが多く、僕もそうだけどそういったものを好む読者も多いらしい。
■いとをかし■
村上春樹といえば、彼の書く物語の終わり近くで時々見られる表現に、こんなものがある。
主人公が日常から離れて、知らない土地――森だったり、高い壁に囲まれた奇妙な街だったり――を訪れる。そしていつしか、その森や壁に囲まれた街は、結局のところ自分自身の一部なんじゃないか、ということを感じとるというもの。
そんな視点でいくと、僕らが日々洗う皿や、掃除をする部屋だとかの作業の対象も、実は自分自身の一部かも。僕らは作業を通して、自身の一部を洗ったり磨いたり空気を入れ替えたり、時には自身の一部を編んだり織ったり組み立てたり、さらには自身の一部をきざんだり(?!)炒めたり(?!)しているのかも。
なんて見方も風情があるのではないでしょうか。
▼│posted at 20:58:15│
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テレビで、ですが、初めてピナ・バウシュのダンス作品を観ました。
念願の初バウシュです。
円満の発売中です。
戦艦の爆砕級です。(なんのことやら)
昔、イリ・キリアンのNDT(ネザーランド・ダンス・シアター)というやはり大御所ダンスカンパニーの舞台を観たことがあります。
しかも生(ナマ)で! チケットは1万円前後しました。
なけなしのナマ・キリアンです。
駆け足の(以下略
キリアンの時はどうにも難しくて、自分にはダンスはわからないのかもと思いましたが、今回のバウシュの方はとても(よい意味で)引っかかりました。なんなんだこれは、という。身体がうずうずしてきて、なんか踊りながら観てました。踊り観、という新しい観賞スタイルを編み出してしまいました。
ところで「踊り食い」というのがありますが、あれって食べる側が踊りながら食べるわけじゃないから、言うなら「踊らせ食い」か「踊られ食い」じゃねえの? もしくは食べられる側目線で「踊り食われ」でもいいです。
さて今回放映されたカフェ・ミュラーという作品の後に、インタビューでピナ・バウシュの創作の方法についての話がありました。
シェイクスピアの「マクベス」をモチーフに作品を創った時のことです。彼女は戯曲を何度も読み研究しました。そしてその中から自分にとって大切だと感じた文章を抜き出して質問をつくり、その質問に対する出演者の答えを材料にして舞台を創ったそうです。以来、この手法は今日に至るまでしばしば用いられているとのことでした。が。彼女は続けて話します。
「けれども、私の方法というのものは本当にはありませんし、
方法を持とうと思ったこともありません。
私がやっているのは、
どういうやり方でなら自分の言いたいこと、
表現したいことのエッセンスを
見つけられるか
の模索です」
そういえば似たようなこととして、小説家の高橋源一郎は
「小説家は、小説の書き方を、一人で見つけるしかない」
また演出家のピーター・ブルックは
「一定の公式など存在しない。決まった方法などありはしない」
ということを書いていたのを思い出しました。
作品を創るということは、「表現したいことをいかにして作品という形に昇華するか」であるということと同時に、その前提にある、自分でもまだよくわかっていない「表現したいこと」を、「自分の中からいかにしてすくい上げるか(=見つけ出すか)」ということでもあり、ということでもあるどころか実はこっちメインなのかもしれない、なぁ、と感じました。
参考
芸術劇場 劇場中継(NHK 2006年8月放映)
一億三千万人のための小説教室(高橋源一郎著 岩波書店)
何もない空間(ピーター・ブルック著 晶文社)
▼│posted at 11:02:30│
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突然ですが、すべての人間は2種類に分けられます。
などとはじめると、簡単にだれでも名言っぽいものをつくれます。
名言テンプレートですね。
このテンプレートをつかってつくったのがこちら。ドン。
すべての人間は、2種類に分けられる。
野球の守備で味方がエラーした時に、
「ドンマイ」という人。
「捕れよテメェコラ(怒)」という人。
「捕れよテメェコラ(笑)」という人。
あるいは何も言わない人。
何も言わないで明かりを消して街の光だけが君を映してる人。
そんなリトルトーキョーな人。
リトルトーキョーがあるならリトルニューヨークがあってもいいじゃないかって人。
でもそんなこと言ったらリトルビッグアップルになっちゃうだろって人。
小さいの大きいのどっちなのって話だろって人。
違うそんな話じゃない。
コミュニケーションのスタイルのことを話したいのです。
やはり一番上から三つ、とりわけ「ドンマイ」と「テメェコラ(笑)」を使い分けられるのがベストだと思うのですが、けっこう「ドンマイ」一本で行ってる人も少なくないのではないだろうか。そして「ドンマイ」スタイルしか持たない人は、なかなか他のスタイルを取り入れにくくなってしまうのでは、と思うのです。
というのも「ドンマイ」と言う人は「ドンマイ」と言われる人でもあります。会話のキャッチボールにおいて無難な球を投げる人なので、返ってくる球も無難な球になってしまう。そしてそれが習慣になり、受ける相手の方も無難な球しかこないと思っているので、ますます遊びのある球は投げにくくなっていってしまうのです。
典型的な「ドンマイ」一本系の人を思い浮かべてみましょう。「ジョジョの奇妙な冒険」の広瀬康一(エコーズACT-0時)、「スウィング・ガールズ」の関口香織(本仮屋ユイカの役)、「天使にラブソングを」のシスターメアリー(キャシー・ナジミーの役)、Little Women(若草物語)のベスなどといったところでしょうか。彼ら彼女らが「テメェコラ」とか言うのを想像するのは、かなりのギャップをともないます。
そして僕も多分わりかしそういうタイプです。好感度の高いキャラクター並べておいてそこに自分も加わろうかというしたたかさで、そういうタイプです。もちろん接する人によって変わるだろうけど、ついつい冒険しないコミュニケーションのスタイルをとってしまいがちです。フィクションの世界ではそれが持ち味ってことでいいんだけど、リアルの世界ではちょっと物足りなさ目の人。魑魅魍魎の跋扈(ばっこ)するが如く人々の価値観のバリエーションが広がるこの世界を渡っていくためには、対話のスタイルのバリエーションも求められていくだろうなということをちょくちょく考えさせられます。
何かのはずみで僕が不自然に「テメェコラ」的なトーンで何か言い出すことがあったら、きっとそんな理由からですので、そのへんは大目に見ていただけるとありがたいかなと思います。
ところでおいテメーこら2種類って何種類だか知らねぇのかクソボケェ(笑)(←超時間差1人ツッコミw
▼│posted at 21:41:59│
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