2008年06月01日(Sun)

シノビノモノローグ

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■新型!?
よおし、この部屋には誰もいないようでござるな。拙者にかかればこの程度の忍び込みはわけないでござるよ。「せきゅりてぃ万全のびるぢんぐ」といったところで、城や屋敷とたいした差はござらん。
おや、机の上に何かバラバラとしたものが。これは…拙者カタカナやあるふぁべっとは苦手でござるが。ユ…ニ? パイロ…ト、トン…ボ…、ゼ…ブ…ラ、ふむ。ボー……ン? ボーなんとかなんとか…ン。ボー……シュリケン! 棒手裏剣でござるか! やつらついに新型手裏剣を開発しおったか。
にしても軽い。これでは敵に傷を負わせることなぞ…はっ! 先端に何か塗ってある、これは…毒!? 油性の毒水性の毒。黒い毒赤い毒青い毒。ソフトタッチでなめらかな毒? 恐るべし新型棒手裏剣。
なんつて。
ボールペンくらい知ってるつうの。
まずは疑ってかかることが肝要ぜよ。

■to be, or not to be
さて。机の上にペンがあると。いや、まだあやしい。こいつらはほんとに机やペンなのか。ほんとうにそこにあるのか。
たとえばどうだ、拙者がこの部屋を出る。すると机もペンも消えるだろう。視界に入らなければないのと同じだ。くだらない? タワケ。
「誰もいない森の中で木が倒れた。音はするか?」問題と同じだ。音というのは、空気の振動が耳の鼓膜を震わせてはじめておこるもの。耳がなければ音はない。

では机とペンの部屋に、うちの黒猫のクロが入っていったとしよう。この場合も机やペンは現れない。机が「その上にものを置いたり、(手)作業をする際に用いる台」、ペンが「字や図等をかくための道具」とするなら、当然それらは現れない。かわりに現れるのは「爪とぎの柱兼見晴台」や「棒状のおはじきみたいな遊びに使えるおもちゃ?」であり、それらは机やペンとは明らかに違うものだ。
つまり机やペンは人間との相互作用で現れるものであって、もともとそこにあるわけではないのだ。
同様に、たとえばドブネズミの汚らしさ、気持ち悪さというのは幻だ。ひとの好き嫌いが生み出す幻術に過ぎぬ。たんつば、糞尿の汚さしかり。それ自体汚いわけではなかろう。クロにとってドブネズミは獲物であり御馳走であり天の恵み。人体の内側はたんつば、糞尿なしでは成り立たぬ。さよう、美醜やきれい・汚いの感覚も観る側の思い込みや都合で現れる束の間の幻でござる。
その勢いで、世間、権威、幕府、正義、ものの価値、さらには言葉、概念、思考、芸術、時間、神、愛、みなこれ――無いというわけではないが、それほど確かなものではないという意味で――幻術ナリ。

■秘すれば花
隠されるもの。なぞなぞの答え。マジックのタネ。物語の結末。噂の真相。究極の奥義。性器。秘宝。麻薬。死。宇宙の真理。人生の目的。
もし、そういうのが隠されていなかったとしたら。
誰もそういうのを気にかけてくれなくなる。それは困る。なんとか注意をひきつけなくては、気付かれてしまう。あのことに。なによりも隠しておきたいことに。
ほんとうはなんでもないということに。

それは同時に、隠すことで生まれるものがあるというようにも言える。
幻こそが、何にもまして必要なものだという見方もある。
なんにせよ、そうやって幻である言葉や概念で知覚のほんとうを探る営みは、幾重にもなって「何か」を包み込んでいる風呂敷を一枚一枚ほどいていきながら、もう一方の手では別の風呂敷で一枚一枚また包み込んでいくようなもので、
はたして拙者は中身を見たいのか、それとも見栄えよく梱包をしたいのか。

それがモンダイだっ。


参考
知性はどこに生まれるか――ダーウィンとアフォーダンス (佐々木正人著 講談社)
ちぐはぐな身体 (鷲田清一著 筑摩書房)
現代語訳般若心経 (玄侑宗久著 筑摩書房)
 
│posted at 23:13:32│ コメント 0件
2008年01月30日(Wed)

食べない食事

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お題。
「家に着くまでが遠足です」といえば「バナナはおやつに入りますか」と1・2を争う遠足にまつわる定番フレーズであり、気が利いているようなどうでもいいようなところが持ち味です。では、これと似た味をもつフレーズを考えてみてください。

◆「食べてないときも食事のうちです」
例えば食べることが好きな人がいて、食べることをより充実させるためにその時間までにはしっかりハラを減らしておくようにするとする。それに加えて何を食べようか考えたり想像したり料理をしたり、さらには食器や調理器具やダイニングのインテリア、はてには流通や農業にまで思いを馳せてみたとする。そういったことがみんな実際に食べるという体験に作用することを考えると、食べる前から食事はすでに始まっていると言ってもおかしくない。むしろ実際に食べている時間はそういったことぜんぶのうちのほんのいっときであるわけだから、「食べていないときこそ食事である」とさえ言ってしまえないこともない。まあ強引だけど。
◆「音のないところに音楽があるのです」
音楽というのはどんなふうに音を出すかがポイント、と捉えられがちだけれど、音を創ることというのは同時に、音と音の合間を創ることでもあって、そこが実は肝心なところでもある。
◆「考えていない時が考えているときです」
アイデアを見つけるプロセスはたいてい、関連する情報を集めて、ある期間集中して考えて、という段階の後に、考えることを止めてボーッとしたりのんびりしているときに水面下で実は進行していて、まったく思いもよらない時にひらめく、みたいなことが多い。

にしても、ほかにも建築は建物というより空間を造るといえるしグラフィックデザインは素材以上にホワイトスペース(余白)の配置であるといえるし旅は目的地ではなく過程だ。
どのケースにしても「AというものはAそのものに見えるけど、実は一見AではないものがほんとのAなのでしたー」のようなわけのわからないことになっている。記号をつかうことでさらにややこしくなっているかもしれないが、AをAにしているのはAではない何かで、それはぱっと見てわかるものではないけれど、そのAではない何かがあるからAは単なるAよりAなのである。

砂漠が美しいのはどこかに「井戸」をかくしているから。
あの地平線輝くのはどこかに「君」をかくしているから。
大切なものは目に見えない。
君のイド(エス)の底に流れる
大切なものには many meanin’ and I …
スレッドテーマ:日記 ジャンル:日記
 
│posted at 22:53:22│ コメント 2件トラックバック 0件
2007年08月14日(Tue)

じょし

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これはイスです。
これがイスです。
という時の「は」と「が」の違いは、なかなかうまく説明できない。生粋の日本人であろうが、生粋の大人であろうが、生粋の家具職人であろうが、うまく説明できない。
たいていは。

それでいて、何かを話そうとする時に、「は」と「が」のどっちを使えばいいかわからずに言い淀んでしまう、ということはまずないだろう。
言い淀むといえば僕の場合、ど忘れとか、ちょうどいい言い回しが出てこなくて言い淀むことはよくあるけど。そして悲しいことに、言葉を探したり迷ったりしているうちにその話題は変わってしまう。
たいていは。

ところで、僕が誰かに、何かについての話をするとする。そこに登場するひとつひとつのものごとは、次のうちのどちらかになる。それは、相手が知らなかったものと、すでに知っているものの二つだ。話は、この二つの間を行ったり来たりする。
たとえば、「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんが暮らしていました」と話し始めるとすると、相手にとっておじい・おばあはは初めて聞く「知らなかったもの」ということになるし、次に「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に…」といくときは、もうおじい・おばあは登場済みなので、今度は「すでに知っているもの」になる。
知らなかったものの時は、おじいさん「が」となり、すでに知っているものになった時は、おじいさん「は」となるのだ。
このへんが「が」と「は」の違いの「みなもと」みたいなものらしい。そしてこの「既知から未知へ」「ものごとの題目を示す部分から、その題目について述べる部分へ」という動きは、人間の思考の特質なのだという。言語は、この思考の動きを反映する。
常に。

というのは、どの言語もそれぞれの方法で、既知と未知の違いを表現するのだ。
英語だとこれをaとtheなどで区別する。
Once upon a time, there lived AN old man and AN old woman. One day, THE old man went into the mountains …
知らないおじいの時はaで、ひとたび知られるとtheになっております。
さらにチェコ語では、これらの区別は語順が担っているのだとか。
方法はそれぞれだいぶ違いながらどの言語でも既知と未知が区別されているのが、この思考プロセスの万国共通さ加減を漂わせている。

てことはこんなのも似たしくみなんじゃないかと思った。
パソコンの画面を眺めると、いくつかのアイコンがある(→新しい情報の登場)。そのうちの一つにカーソルを合わせる(→題目の一つに焦点を合わせる)。で、クリック(→その題目について述べる部分へ:既知から未知へ)。
そんなイメージでいくと、トークバラエティーの司会者が意識するのはタレントの話を膨らませる進行(クリック)と、次の話題に移る進行(カーソル移動や画面スクロール)だし、小説は描写の文(クリック)とストーリーの展開の文(カーソル移動や画面スクロール)からできている。
即興演劇には、エクステンド&アドバンスというエクササイズがあるけど、これも語り手に対してエクステンド(そこんとこもっと詳しく!)とアドバンス(それからどうなるの?)をリクエストするものだ。

みたいなアングルで思考を眺めてみるのもおもしろい。

参考
外国語上達法(千野栄一著 岩波新書)
V・マテジウスの「文の基礎と核の理論」
 
│posted at 21:43:20│ コメント 0件トラックバック 0件
2007年07月08日(Sun)

つぶつぶストレンジ

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たまに長い時間歩いたりすると、いろんなヘンなことを思い出すことがある。

昔、つぶつぶオレンジっつう缶ジュースがあったなー。みたいなどうでもいいこと。ただそんなのを思い出すと、なんかノスタルジックな気分になる。
それとか、昔、ウゴウゴルーガっつうTV番組があったなーとか。やっぱりどうでもいいことだけど。ちなみに僕の中では「内容はよく知らないけどタイトルは知ってる番組TOP10」に見事ランクインしている。これも見事にどうでもいい情報。
ウゴウゴルーガというのはゴーゴーガールを逆から読んだわけだけど、つぶつぶオレンジがぶつぶつオレンジだったらもっと早く廃れていたに違いない。つーかホントどうでもいい。

それはさておき、つぶつぶオレンジをおいしく飲むには「よく振ってお飲みください」の指示に従ってよく振って飲むといい。そうすると、つぶつぶがジュースの中によく混ざっていいあんばいなのである。
ノスタルジックな気分って、昔の記憶が現在と混ざり合うみたいなことだ。人間の記憶はきっとつぶつぶオレンジのつぶつぶのようなもので、ほうっておくと記憶たちは次々と底の方に溜まっていくので、時々よくかき混ぜてやるのがいいのかもしれない。そしてそれをかき混ぜる最良の方法というのが、

サンポ

なのではないか。実は。
以前、飲み会で終電をのがして3時間くらいかけて夜道を歩いて帰った時とかに、この「かき混ざり」を体験した。そして最近、普段は自転車を使って通勤していたのを、試しに歩いてみた(1時間くらい)ところ、確信した。

歩くと、かき混ざる。

ポール・オースターの小説で、さすらい歩くことの魅力を「どこでもない場所へ行けること」と表現したものがある。僕の強調したいのはそれとはまたちょっと違うようだけど(あるいは同じことなのかもしれないけど)、「かき混ぜ」なのです。
かき混ぜられる記憶はそして、自分(個体)のにとどまらず、祖先のものにまで及んでたりして。

「われわれの身体構造は、脳細胞から爪先まで、イバラのやぶや砂漠地帯を周期的に徒歩で移動する生活に合うように、自然淘汰されてでき上がったものなのだ。
もしそうなら…(略)…所有がわれわれを疲弊させるその理由を…(略)…容易に理解することができるだろう」
(ソングライン ブルース・チャトウィン著 めるくまーる)
 
│posted at 23:30:42│ コメント 2件トラックバック 0件